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高知県天然記念物 土佐錦魚 (とさきん)

土佐錦魚の歴史

まえがき

 トサキンの歴史を探る時、特筆しなければならない3人の人がいる。
一人は、その品種固定を成し遂げた
須賀亀太郎氏。次は、南海大地震後それを絶滅の危機から救い、今でも品評会で審査員の主役を務め、トサキンとは切っても切れない人、田村広衛氏。第3には昭和44年8月8日、トサキンを天然記念物に指定させることに尽力し、現在、土佐金魚保存会の中心的世話役となっている野中進氏である。
 大和郡山の金魚は、江戸時代に参勤交代の際、江戸より持ち帰られたものがもととなって、今日の活況を見るに至ったと言われているが、土佐でもほぼ同じような事が一般に考えられている。


品種固定の浅い金魚

 トサキンは、その形態が美しく、形は琉金に似ているが、口は細く、特にその尾鰭が連続して水平になり、琉金のように中央と左右が分裂したり下に垂れたりしない。そして、静止した時、左右に直線に張った尾鰭の前べりに向かって後からかぶさるように丸く下にカーブする優雅な姿は、まさに金魚族の女王と言ってよい。
だがこの金魚には随分と不完全なものが生まれるので品評会で優勝、一等となるのは孵化した稚魚の内で千に一つと思ってよい。俗に言うハネキン多い事は他に例のないことで、採卵には良い形の親魚を選ぶに越したことはなく、それ自体、品種固定の浅い金魚と言えよう。
 特に問題となるは尾鰭であって、尾先の極度に切れこんだサクラも、中央の筋に沿ってツマミ上がったのも、幅が狭いのも、前後極度に短いのも駄目で、成長して俗に言う「横綱張り」と言う尾鰭になるのは、子魚のとき如何にも品のある「ユトリ」を持つものでなければならない。
しかし、その後の飼育過程がまた問題であって、そのまま順調に行けばよいが、いつの間にか片方へツリ上がったりするので困りものである。かと言って、遅くなって意外と良い形に変化するものもあり、そこにまた飼育の楽しみも多い。


高知の土佐金魚保存会と東京のトサキン保存普及会 

 この金魚をこよなく愛し育てる者の集いとして、高知では、昭和47年に結成された土佐金魚保存会が中心となって、毎年夏より秋にかけて品評会を行いその飼育を奨励しているが、昭和49年現在、この会へ加入している人は次の通りで、その数は僅かであり、高知市居住者が圧倒的に多い。

吉田真敏
吾川郡伊野町
岡部忠孝
高知市愛宕町
吉田邦夫
高松市古馬場町
笹岡幸喜
高知市介良
刈谷稲美
高知市筆山町
前田竹行
高知市長浜門前
下村秀男
高知市中泰泉寺町
宮地敬次郎
高知市帯屋町
吉田敏雄
高知市北高見町
中野佐平
高知市百石町
安岡光夫
高知市弥生町
池上 伸
高知市長浜梶ヶ浦
中西昭二
高知市宝永町
間城秀夫
高知市長浜
矢野城楼
高知市高須
影山忠一
高知市西久万
沢村修一
高知市城北町
野中 進
高知市東雲町
田村広衛
高知市南与力町
近森 実
高知市西新屋敷
竹田 茂
高知市長浜西塩谷
門田真澄
高知市長浜門前
(会長門田真澄・副会長野中進・近森実・審査委員田村広衛・沢村修一・会計升田茂)

 このように高知市内居住者が多いのは、金魚の餌となるミジンコやアカコ(糸ミミズ)が昔から高知市中のドブ池や溝に多かった事に原因するものであろうが、熱帯魚飼育の普及に伴って人工餌が多量に出回り始めた現在では、この飼育圏にも変化が予想される。
事実、生活態様の変化と共に洗剤その他の公害物質がふんだんに放出されるようになって、高知市内ではアカコがほとんど姿を消し、飛行機によって大阪から空輸されるものを待たねばならなくなって、金魚も自然食品より隔離されたと言ってよい現在、やむを得ず人工餌への切り替えを余儀なくされている状態ではむしろ全県下共通の条件に置かれたと言ってよいからである。
只、子魚の時は、どうしてもアカコを与えなければ、魚体にふくらみが付かないというのは、多くの飼育者の意見で、そこになお問題は残されている。
 果てしなく青い空と、強烈な日光に恵まれた土佐を出られないかのように、このトサキンは低温と日陰には弱く、自然とその全国的普及は困難視されてきたが、電熱その他の保温技術の進歩した現在では、色々と飼育が研究されていると見えて、その優美な姿をわが手にしようとして、東京にもトサキン普及保存会が結成されている。
10月も半ばになると、高知でも昼夜の温度差が大きいため、夜はビニール障子をかけないと、日照度の少ないところでは水を澄まさずに置いた場合、魚体に白いネバリのかかることがある。なるべく荒い水・低温・少ない日光にも耐えられるように飼育の研究が行われなければ、単に姿態の美しさだけを研究しても、その普及には壁がある。
トサキンの良い魚は、勿論、高知にいる事は間違いないし、その誇りは持ってよいが、その技術を門外不出とし、徒に狭量になっては、新しい時代のトサキン飼育家の名に恥じることになりはしないか。
この意味で東京のトサキン普及保存会の盛んになることを耳にするのは誠に喜ばしい事である。この会の役員その他、昭和48年度のメンバーは次の通りになっている。

会長 木村 重
浦和市別所                
理学博士
理事 落合 明
高知県南国市物部 高知大学農学部水族生理生態研究室  
理学博士
   熊谷孝良
品川区大井           
慶応大 生物学教室
   柴田 清
国立市東区         
日本水棲生物研究所長
   近森 実
高知市西新屋敷               
病院事務長
   長沢兵次郎
葛飾区水元小合町          
都水産試験場技官
   野中 進
高知市東雲町          
土佐金魚保存会副会長
   牧野信司
台東区御徒町           
日本熱帯魚研究所所長
   矢野忠保
高知市池字田島              
金魚養殖業
顧問 吉田松樹
葛飾区東新小岩        
日本観賞魚振興会会長
   長瀬貫公
中央区日本橋芽場   
日本観賞魚振興会理事長
協賛役員中路英弐
千代田区富士見            
興和水槽社長
   渡辺武次
豊島区南池袋     
土屋商店西武百貨店金魚売場主任
   中村利一
千代田区飯田橋              
緑書房社長
   武田史郎
千代田区飯田橋            
緑書房編集部
   石津恵造
千代田区飯田橋             
緑書房編集部
会員60名中年令の判明している者33名年齢別内訳
 50
才代
 40
才代
 30
才代
 20
才代
 10
才代
 3人  5  4  12  9

会員60名の居住地分布
東京
千葉
埼玉
神奈川
栃木
長野
宮城
 35人  4  4  4  1  2  1

静岡
愛知
滋賀
大阪
兵庫
香川
宮崎
県 
 1  2  1  1  2  1  1
この会では、毎年7月と11月の2回、西部池袋百貨店屋上の金魚売場で品評会を開き、トサキンの保存と飼育の普及に努めている様で有るが、東京の会員名簿を上のように分析して気付くのは20才代が12人となって若い年齢層の多い事と、10才代の学生が8人もいてそのうち5人が東京都内、他は兵庫県に2人、神奈川県に1人いることで、トサキンの普及と言う点で誠に好ましい現象であるが、全国的分布とは言え、この事実を社会学的にどう理解してよいか、今後の研究課題でもあろう。
更に、生物学的に見た場合、会員分布の南限は宮崎県の北緯32度付近、北限は宮城県の38度付近、その中に長野県諏訪市のような、海抜760メートル近い中部山岳地帯の高冷地が含まれているのも今後の飼育技術上の参考となる。




品種の固定

 〜田村広衛氏の記憶〜
 トサキンの品種固定を成し遂げたと言われる須賀亀太郎氏と親交があり、トサキンを今日に伝える中心的存在となった田村広衛氏(高知市南与力町居住・当76才)の説明によると、嘗て淡水魚の研究家松井博士の依頼により、須賀家より史料1冊を借り、トサキンの成魚と共に同博士の宅に持参した事があったが、その後その資料は一向に返却されずにいた。そのうちに或る日、その史料と共にトサキンのことが朝日新聞の記事に掲載され、驚いた須賀荘介氏(亀太郎の長男・死去)が松井博士宅に出向いて、その史料の返還を受けた。それは現在須賀家(亡荘介氏妻チカ子さん、高知市潮江新町1丁目居住)にあるはずだが、それには絵は全く載ってなかった。
須賀家は昔、南与力町の東はずれ北側に住居があって亀太郎は須賀克三郎の長男に生まれ、家伝来の金魚を飼育していたが、そのうちに品種改良を思い立ったようで今は幻の金魚と言われる大阪(関西)ランチュウ(帯屋町の今のスーパーの前で近森と言う人が飼っていたことが有り、口の細い非常に美しい魚で尾の広がりの悪いところは、トサキンのハネものの一番よいところくらいの魚と思えば良く、今はいない)に、尾鰭の左右に張りの強い琉金を交配して、今のトサキンができたもの。須賀家は五石5人扶持で生活が苦しい為、代々金魚を飼って生活の足しにしていた様である。田村氏はもと大工であったが、このトサキンの美しさに魅せられて金魚屋になった。現在は、もと金魚池で広かった敷地に田村ビルを建て楽隠居であるが、終戦後の南海大地震の直後、鏡水桜主の自宅へ行った時、地震後、海水のさしひきする庭で、傾いた金魚鉢の中にトサキンが偶然にも僅かの水に生き残っているのを見つけ、酒の好きな主人との話で焼酎と交換する事となり、かつて疎開していた高岡郡の奥地まではるばると自転車で出掛け、焼酎を手に入れてきてこの取引に成功し、トサキンの子種を殖やしてきたという。勿論、城から西では、地震の被害が少なかったので多少は残ったであろうが、現在トサキンを飼育している人で、直接、間接に田村氏に関係のない人はあるまい。
トサキンの品評会について、田村氏の記憶では、大正の初め頃から、今回は石立の八幡様、次は高知公園の榎の下でというように開かれ始めた様である。
記録は殆ど空襲の時に焼けているが、只一枚だけ昭和4年11月23日高知の新開地で催された会の結果を、土佐錦魚見競鑑として東西に分けて番付にしたもの保存しており、勧進元土佐錦魚会として筆者嶋村十十(とじゅう)(潮江の人で浄瑠璃語り、トサキン愛好家)と勘亭流で書き、役員その他に次の刷り込みがある。
        
 会長(蓮池町片岡)・副会長(中島町田嶋)・相談役(中島町須賀・潮江浜田)・検査役(江の口町森本・潮江浜田・中島町須賀・中新町田嶋・帯屋町久保)・幹事(井口小谷・帯屋町蒲原・堀詰川ア屋・紺屋町楠瀬・農人町秋沢・
 潮江矢野)・会計(梅の辻十十)・会員(西唐人町北村・本町小島・帯屋町西山・帯屋町久保・廿代町徳吉・山田町氏原・大正町由井・潮江山崎・小高坂和田・帯屋町山本・上新地池添・本町須賀・新町井内・江の口町浜川・中島町田村)
トサキンは短期間に飼いこなして入選まで持っていけるものではないから、この番付表に記された人々が、恐らく大正から昭和の初めにかけての高知におけるトサキンの有名飼育者と見てよいだろう。

 今回の調査に利用した須賀家の史料(ミニコピーによる写真版)を田村広衛氏に見せたところ、この史料は自分が見たことのない史料だと言う。和紙をとじた表紙に土佐錦魚元祖と墨書し、細かな注釈の所は別にして、大体各ページを2段に分け、下段がが絵、上段が自分の飼育してきた金魚に付けた名前と年代で、弘化2年(1845)年から嘉永4年(1851)、須賀氏が75才になった時までの記録を一時に書いたものと推定される。表紙2枚を除き55ページ有るが、画かれた金魚の魚体を見て田村氏は、これは亀太郎の品種固定をしたトサキンとは違っていて、名古屋地金だと思う。恐らく、土佐錦魚元祖とは書いてあるが、自分が土佐で飼いならしたので、そのために土佐錦魚元祖と書いたものではないかと言う。
         
 このような思いつきが感じられる点を挙げると、第2ページに「水なとの動くにつけてのとかなり 松崖筆書」年、鶴を2羽画き、洞意画と添え書きしてあるが、洞意とは弘瀬洞意、すなわち絵金のことであるにも拘わらず、これを全く違った筆勢で、自分で画いたものに他人の名を借用したものと考えられる事。題46ページにも朱盃に亀を描き、観耕斎知雄七五叟筆とし「万年のぬるみや八十の漆人 魯松
 」とある事。魯松幕末の土佐の宗匠であろうが、伊野町琴平山、琴平神社の境内に芭蕉の句碑があり「春の夜は桜に明けて仕舞いけり 芭蕉翁」の左下に「魯松敬」書と刻まれ、建碑の年は「嘉永五稔壬子之歳社中建之 初九 謹鐫」となっている。
は菴の古字であって、須賀家文書の字はと誤っており、少なくとも本人なら固有名詞の文字を、誤る事もないはずで、観耕斎知雄七十五叟がこの史料の筆者で有るに違いない。となるとこの俳諧がまた魯松の作か否かも疑問視されるが、ともかくも、記録の最終年が嘉永四年(1851)でこの時に75才とすれば、安永6年(1777)の生まれであり、江戸後期の文化、文政の頃には、高知城下でも金魚を飼い生計の足しとしていた軽格の氏がいた事は推測される。
 南与力町とは、山内家の家老乾市正の与力(土佐で与力とは家老の家臣)の居住した所で、その頃から始まった町名と言われ、田村氏の記憶による五石五人扶持すなわち粳米五石は、軽格(下士)の士の内、新足軽・定小者・六尺などに当たる給与で、須賀亀太郎の家がこの給与を受けて南与力町に住っていたと言うのは、或いは与力の家に付属する軽格の者であったかも知れない。
 須賀亀太郎は、昭和12年(1937)5月21日82才で死去、その生年は安政3年(1856)、父克三郎は、文久3年(1863)38才で死去しているのでその生年は文政9年(1826)、亀太郎は克三郎31才の年の子である。それから計算すると、この史料の記録最終年となっている嘉永4年(1851)は、克三郎が26才の年の子となり、もしこの史料の筆者が克三郎の父だとすれば、克三郎は筆者某の50才の時に生まれたことになり、家代々金魚の飼育をしてきたものとみられる。克三郎死去の年には亀太郎は8才であるから、到底金魚の面倒を見る年令ではなく亀太郎以外の人の手によって飼われていたはずで、恐らく、須賀家は一家そろってこの事に専念していたものであろう。
 弘化年間に江戸と金魚の交流があった事は、史料第4ページに「弘化3馬年、末子、江戸魚、都鳥、雄、末3月5日求之」と記され、それが江戸魚であり、都鳥の名を付けたところからも、そのことは推察される。現在のように薬品の開発されていない時なので、魚の病気には大きな苦労をしたと見えて、第55ページには、「療治の事  一、鱗の中へ虱わきて苦しむことあり、是は烟草の吸殻を節々すり込めは治る事あり。 一、ぬまり病薄白くきぬを着たるようになる、これは赤土たてたる水へ節節入、壱廻り7日の中治す。」等、体験による治療法が述べられてある。
 田村広衛氏の言を待つまでもなく、この史料(松井博士より返されたはずの別の史料がないので、それには誰が何を記録してあったのか判からないが)の金魚は何れも魚体が長く、むしろ和金体形である。ただ、尾鰭は左右の鰭と中央鰭との切れこみが少なく、全体として水平状で現在のトサキンの尾とやや似通った所もあり、トサキンには、或いは、須賀家が代々飼育してていたこの金魚の血も少しは混入しているかも知れないが、トサキンの直接の祖形に付いては、やはり、亀太郎と親交のあった田村広衛氏の言を信頼するのが本筋であろう。


天然記念物に指定

 トサキンが天然記念物に指定されたのは、昭和44年8月8日の事であるが、それに先だって、高知県教育委員会に対し、3回も申請書が出されている。
第1回は土佐金魚会代表者野中進氏の名により、第2回近森実氏の名により、第3回は再び野中進氏の名により提出され、漸くにしてその価値を認められたが、この様に、申請に対する裁断の進捗しなかった原因は、県教育委員会の無関心さにも合ったようで、長い間、審議もされずに係員の机の抽出しに眠っていたと言う話もある。
 そして、この申請のきっかけを作ったのは、野中氏の遠縁につながる高知市桂浜、土佐闘犬センターの広瀬まさる氏のアドバイスであったと野中氏は言っている。こうしてトサキンは長尾鶏と同じく、単なる金魚としてではなく、人間によって造られた美しい姿態を持つ土佐の生物を代表するものとして、観賞魚界に異彩を放つことになったのはつい最近のことで有るが、その影には、1世紀以上にわたる土佐人の、美しいものを愛し育てようとする情熱と執念の歴史が潜んでいることを忘れてはならない。