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高知県天然記念物 土佐錦魚 (とさきん)

天然記念物指定まで

 高知県の教育委員会にその申請書は、古いファイルの中の一枚として保存されている。
 天然記念物指定申請の土佐錦魚の記述は、昭和40年に高知市追手筋12の柳原範夫氏の申請から始まる。その申請書には「天然記念物」との題名のみで申請書の文字はない。
 「名称」のところには、【土佐金魚】の4文字があり意外にも【土佐錦魚】と書く【錦】の文字を入れての申請ではない。
 そして、「所在地」として【高知市追手筋12 土佐金魚会 柳原範夫】と書き込まれている。
 次に「由来」として、【藩政の頃、藩士 菅某が大阪ランチュウとリュウ金の交配により、新型の金魚飼育に成功、土佐金魚と名付け飼育してきたが、昭和20年空襲時壊滅的打撃を受け、滅亡寸前の状態になっていたものを田村広衛氏によって続けられた】と書かれており、この申請書の最後には「指定を必要とする理由」として【尾鰭に独特の特徴をもち姿態優美である。土佐金魚と地名を冠したものも全国的に少なく、全国に誇りうるが、年々減少しているので保護を加えたい】と書かれている。
このような一枚の申請書が、高知県教育委員会の統括の中にある文化財保護課に提出されているが、これに対する許可書や指定通知書などの書面や印は書類の中に見当たらない。
 ここで柳原範夫氏と出てくる人物について説明しておく。
土佐錦魚の歴史を語る上で必ず出てくる人物で近森実氏がいる。実は彼の従兄弟に高知県教育委員会勤務の方がおられ、その職員を通じて天然記念物指定の働きかけが始まったものである。近森氏は、追手筋にあった柳原病院の事務長をされていた。その病院の院長が柳原範夫氏という訳である。当時は院長も病院の屋上を使い、相当大掛かりな土佐錦魚の飼育をされていたようである。


 上記の申請より2年ほどたって「高知県保護有形文化財指定申請書」が提出されている。
申請日は昭和42年8月で、何日かは記入されていない。
申請者は【高知市東雲町1の5 土佐金魚会 野中進】と署名され【土佐金魚之印】の24ミリ角の角判が押されている。
(1)種別・名称
 【土佐金魚】
(2)所在地・所有者等
 【高知市東雲町1の5 野中進】
 【高知市新屋敷68  近森実】
(3)形状
 【肢体優美にして口元小さく愛嬌がありその尻尾は大きく反転して先端は体の半ばをこえ、優雅に泳ぐを見るにまるで牡丹の花の今を盛りと咲き匂う姿にも似ている】
(4)由来・年代等
 【土佐金魚は大阪卵虫と流金とえお交配してできたものの中より、その後の改良によって固定完成させた物で、これは元、南与力町山内家家臣須賀亀太郎氏のなしたものである。現在、須賀家に残存している金魚の絵図は弘化2年よりのもので須賀家の先代がこの魚を固定させようと相当の苦心した事が伺われるも亀太郎氏に至りようやく完成したものである。その頃の(弘化2年頃)魚は固定した当時より遥かに体が長く現在魚のような優美さは見られない。固定当時の魚色は黄金と黒色の2種類に過ぎなかったが、現在は、黄金、黒、濃い赤、赤白、白色である。しかしこの魚も南海地震で絶滅状態となっていたが、僅かにつがいの金魚を南与力町田村広衛氏が死滅より守り現在の養殖のもとを作ったのである。】

と書かれており、簡単に土佐錦魚の生い立ちと交配の歴史、魚形や色までも記入されている。
野中進氏の話によれば申請は3度行われている。まず、土佐金魚会の代表である野中氏の名前で、次いで近森氏の名前でだった。そして昭和44年の春に野中氏の名前で3度目の申請を行った。これが3度目の正直となり、昭和44年8月8日に晴れて高知県天然記念物に指定された。

この1世紀半の間、土佐錦魚は様々な出来事に遭っている。最初の申請書には昭和20年の高知大空襲を、後の申請書には昭和21年の南海地震を絶滅の出来事として記している。
このような人間さえも危険な状況の中、土佐錦魚の命の糸は途切れず現在を迎えている。